- 「天祐庵」三畳台目の席は、京都・表千家(おもてせんけ)「不審庵(ふしんあん)」の「写し」として、江戸時代後期、天明年間(1781〜1789)に造られたものです。「写し」とは、先行する手本(本歌)をそっくり模して造る手法であり、茶室建築のみならず日本の芸道の世界で伝統的にしばしば行われているものです。「天祐庵」は「不審庵」写しとしては、現存最古のものの一つといわれています。
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客座より点前座を見る
(撮影 畑 亮)
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給仕口より客座を見る
(撮影 畑 亮)
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点前座より客座を見る
(撮影 畑 亮)
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- 「天祐庵」は「不審庵」にみられる特色をよく受け継いでいます。間取りは平三畳台目、台目切り、出炉、本勝手、上座床の席。点前座(てまえざ・亭主の座る畳)は台目畳(3/4の長さの畳)で、客座との間に中柱を立てて袖壁を作っています。躙口(にじりぐち)、下地窓(したじまど)、連子窓(れんじまど)、突上窓(つきあげまど)、茶道口、給仕口など多くの開口部を巧みに配し、天井は平天井と駆け込み天井(斜めの天井)で細く分けられています。これら様々な要素が的確な寸法で布置され、見事な比例感を醸し出しています。利休系草庵茶室の典型といえます。
- ところで茶道口には一般に「片引き」の太鼓貼襖(たいこばりぶすま・框を見せず、紙を貼り廻した襖)が建てられますが、本席では「不審庵」特有の「片開き」の太鼓貼襖が踏襲されています。また「不審庵」と同様に点前座の風炉先(ふろさき・道具を置く前方)に茶道口を設けており、亭主は茶道口から茶室へ入ると一度ぐるりと向き直ってから座る形式となっています。そのため点前座の脇には板畳を入れて広さを補い、また向き直る際に壁を擦らないよう、高さ1尺4寸2分のところまで袴擦り(はかまずり)の腰板を入れています。
- 「天祐庵」の沿革と席名の由来 <太郎庵・・・嬉森庵・・・天祐庵>
- 「天祐庵」三畳台目の席は、名古屋の茶家・牧野作兵衛が天明年間(1781〜1789)に京都・表千家「不審庵」の「写し」として牧野邸内に造営したものであり、当時は「太郎庵」と称されていました。
- 大正5年(1916)、当時の高名な茶人・高橋箒庵(たかはしそうあん)が名古屋に滞在中、牧野作兵衛五世からこの茶室を譲渡する意を聞き、これを旧水戸藩主徳川圀順の小梅邸(東京・向島)に移築。その地の旧名「嬉しの森」にちなんで「嬉森庵(きしんあん)」と改名されました。
- その後、徳川邸移転の話が起こり、この茶室は上野公園内日本美術協会に移されることが考えられましたが、当時は公園内に木造家屋の建設が許されない状態でした。このため再び箒庵の勧めで、大正12年(1923)春、津村順天堂(現・ツムラ)の主・津村重舎氏が目黒の同氏邸内に移築し、同時に広間を増築しました。
- 直後の関東大震災に際して、小梅・徳川邸や上野美術協会は悉く焼失しましたが、この茶室は図らずも目黒に移されたため、その災禍を免れました。箒庵はこれをまさに「天祐神助」(天の助け、神明の加護)であると喜び、改めて「天祐庵」と命名するに至ったといいます。さらに昭和20年(1945)の戦災にも、目黒・津村邸の本邸は焼失したものの、本席は幸いにも再び焼失を免れました。
- その後、昭和33年(1958)に五島慶太氏が津村邸の一部を東急電鉄の車庫用地として津村氏より譲り受け、本席も敷地と共に東急電鉄の所有となりました。しかし本席は五島氏ならびに浅草寺婦人会の尽力により、浅草寺の伝法院庭園内に移築されることとなり現在に至っています。
- 浅草寺への移築に際して津村邸の頃とは水屋の位置と屋根の形状が改変されましたが、今回の修理では古資料に基づき、共にかつての形式に復されました。屋根は本歌にあたる「不審庵」とは異なって急勾配の茅葺であり(今回は茅葺型銅板葺きに整備)、むしろ表千家点雪堂(利休を祀る祖堂)に近い意匠です。なお露地、及び外腰掛は津村邸時代のものとは異なっており、浅草寺移築時に新たに作られたものと思われます。
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外観 正面
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外観 正面
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水屋
(撮影 畑 亮)
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広間 八畳
(撮影 畑 亮)
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外腰掛
(撮影 畑 亮)
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- 聖観音宗総本山金龍山浅草寺は言わずと知れた「浅草の観音様」です。「天祐庵」のある伝法院は浅草寺の本坊にあたり、境内の西南の一画を占めています。院内には五重塔を望む広い回遊式の庭園を構えており、そこは東京の街中とは思えない趣を呈しています。「天祐庵」はその北側、「望嶽台」と呼ばれる丘の麓にひっそりと建っています。
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