東京都指定有形文化財

豊鹿島神社本殿

とよかしまじんじゃほんでん


東京で一番古い
神社本殿遺構

中世武蔵野の
面影を伝える古社

 

  •  豊鹿島神社本殿は室町時代、文正元(1466)年の建立。東京都内に現存する神社本殿建築の中では最も古く、また都内唯一の室町時代建立になる社殿。中世武蔵野の建築様式を伝える数少ない遺構です。



  •  本殿は和様(わよう)の一間社流造り(いっけんしゃながれづくり)。「木割(きわり・各部の寸法を決める計算法で古くは木砕(きくだき)という)」などの設計手法は、近世以前の古様(こよう・古い形式)を示しています。『匠明(しょうめい)』などの大工秘伝書や、近世の木版木割書に多くみられるのは「寸算(すんざん)」といわれる手法で、小数点を持った数字を掛け合わせるものですが、ここでは「七面取り」「五間割(ごまわり)」など、整数値で割る方法が多用されているものと分析され、興味深いものがあります。

    正面
    (撮影 畑 亮)

    正側面
    (撮影 畑 亮)

    側軒
    (撮影 畑 亮)

    側軒
    (撮影 畑 亮)

    正面軒
    (撮影 畑 亮)


  •  後世に複数回の修理・改変がなされていますが、解体調査によって創建当初は板葺屋根であったことが確認され、今回の工事で復原されました。また向拝柱は江戸時代初期頃までには既に交換されているものと考えられ、中備(なかぞなえ)の蟇股(かえるまた)や、縁廻り、脇障子(わきしょうじ)も後補です。このため当初は見世棚造り(みせだなづくり)の形式であった可能性も浮上します。



  •  豊鹿島神社の祭神は常陸国一の宮・鹿島神宮と同じ武甕槌神(たけみかづちのかみ)であり、鹿島の神を祀った神社ですが、明治期以降に「豊」の字を冠し、「豊鹿島神社」と呼ばれるようになりました。
     養老5年(721)頃の『常陸國風土記』によれば、香島(鹿島)の神を「天(あめ)」(=高天原・たかあまはら)では「日香島之宮(ひのかしまのみや)」、「地(つち)」(=豐葦原水穗之國・とよあしはらのみづほのくに)では「豐香島之宮(とよかしまのみや)」と名づくと記されていますが、これと関わりがあるのかもしれません。

  •  豊鹿島神社の起源は不詳であり、草創期より鹿島の神を祀っていたものかどうかも不明ですが、資料的に確実となるのは当社の文正元年(1466)建立棟札であり、「鹿嶋大明神」と明記されています。
     鹿島の神は『古事記』にあるごとく、既に葦原中国(あしわらのなかつくに)を治めていた出雲の大国主神に国譲りを迫り、武御名方神(たけみなかたのかみ・諏訪大神)と力比べをしてこれを破り、天孫降臨(てんそんこうりん)に功のあった高天原随一の武神とされています。
     武神である鹿島の神が祀られ信仰の対象とされた背景には、戦いの守護が必要とされる状況があったものとも推測され、「鹿島社」としての当社は中世武士団と深い関わりを有していた可能性が考えられます。戦国時代が終わり江戸期に入って世の中が平穏になると、一般に信仰の対象は五穀豊饒や病気平癒等、諸々の現世利益を求めるものに推移する傾向が見られますが、祭神が武神であることは、逆に当社が古い歴史を有することの一端を傍証するものと思われます。
     なお『武蔵名勝図絵』によれば、当社の創建は文武天皇の慶雲4(707)年、武蔵国へ来た鬼神を常陸峯にて鎮めて、天智天皇第四の姫宮、及び蘇我山田石川麿が建立したものとされています。

 

所 在 地

東京都東大和市芋窪

 建立年代 

室町時代 文正元年(1466)

修理工事

平成6年(1994)完了

見  学

境内自由

 

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